フジア杯と日本人の課題

 随分、ご無沙汰してしまいました。アジアカップの評論をしてほしいという話をあちこちでされるので、遅まきながら。

 まず、森保監督になってから、ハリルホジッチが残したプラスの遺産、すなわちタテに勝負する意識が定着して、以前のように「どうしてここでどうでもいいパスつなぐんだ~!!!」というイライラは減りました。ただ、期待の堂安にしても、原口にしても、イラン戦、カタール戦のように「ここ一番の勝負」では、強力な攻撃の突破口になれるほどではなかったですね。屈強なサイドバックに封印される時間が長かった。まだまだ対策を立てられると威力が半減してしまう。

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 チームとしては、状況に応じて戦い方を変えられる応用力がついてきていると感じます。少なくとも「自分たちのサッカーをするだけです」という・・の一つ覚えではなくなった。ただ、先ほど挙げた個々の選手のプレーと同様、「ここ一番」という試合で勝ち切れない脆さは相変わらず。

 

「厳しいイラン戦を勝ち取ったではないか」という指摘もあるでしょう。確かにその点は評価できます。しかし、一つの大きな勝利をした後に本当に大切な勝負は落としてしまうという流れはドーハの悲劇以来、あまりかわっていません。

 ドーハの時は、崖っぷちに追い詰められてから韓国に劇的勝利をして望みをつないだものの、最後にイラクにしてやられた。ロシアW杯でも、コロンビアに勝ち、セルネガルに引き分けて「すご~い!!」となった後、消化試合のポーランド相手に負けた。今回もイランに勝って「意外に勝負強くなった」と思わせた後、大切な決勝戦で完敗しました。

 厳しい勝負を「勝ち切る」のは、本当に難しい。しかし、今、日本サッカーの課題はその一点に集約されています。それは、日本代表になってからの強化で推進されるものではなく、日本中のあらゆるサッカーシーンに委ねられている課題と思っています。

 というか、サッカーに限らず、日本人の日常行動の全てで、自己判断し、決断し、後始末まで自分で責任を持つという意識を育てていかねば、それは改善されないでしょう。「皆がそうだから」「人に言われるのがいやだから」という概念が先に立っているうちは、大事な勝負事に果敢に挑んで結果をもぎ取るという意識は醸成されていかないでしょう。

 例えばどのサッカークラブに入るかという選択でも、進学先の選択でも、はたまた政治的な判断でも、可能な限りの情報を入手し、客観的な視点を働かせて「目先のことではなく長期的な展望を見据えてよく考える」ことをせず、「根拠のない風評」に踊らされ、「何となくみんなの傾向」のようなものに流され、巧みな商業的動員に踊らされて決めてしまう。そんな「思考停止」の日常を送っている限り、個々の確かな思考力、判断力、決断力は育たないでしょう。

 上手くて賢くてチームワークがいいように見えて、いつも大事な勝負をことごとく落とす...そんな日本代表の姿は、まさに私たち日本人の「今」の姿を映し出しているのです。