ミンナ...の怖さ

 東京五輪、耳を疑う話が次々に出てきます。費用が3兆円???何十億円っていう建設費用の見積もりがゴーサインもらったら一千何百億円???ダチョウ倶楽部じゃないけど「聞いてないよ!!!」っていうこと次々。
 小池都知事、奮闘してますね。当然のことながら「話が違う」ことについては、正していかねばなりません。安く見積もっておいて「買う」といったら法外な値段ふっかけるなんて、ヤクザの商売と同じですからね。
 それで、小池さんが「見直します」といったら、出てきましたよ、あの日本中から諸悪の根源扱いされても平気な鉄面皮じいさん。某大学ラグビー部に数週間所属したらしいことから、いつのまにかスポーツというとしゃしゃり出てくるようになったあの人。曰く「これまでみんなで一生懸命やってきたこと。だから簡単にひっくり返すわけにはいかない」ですと。つまり「みんなで一生懸命」やれば、何でも正当化されるという、古く悪しき日本の全体主義の象徴の哲学。
 どうしてこんなにも「みんな」という言葉は日本では「決めの一句」に使われるのでしょうかね。「みんな」がやっているといえば反道徳的に事も平気でやる。「みんな」が受験の準備を始めたといえばウチだけ遅れる訳にはいかないと根拠のない焦燥感に駆られて塾に通う。正しいかどうかはどうでもよくて、自分が「みんな」から遠い場所にいなければい、という発想。だから「みんな」が間違っていても、「みんな」に含まれていればいいと考える。
 最近「みんな」が気持ち悪い使われ方したこと、ありましたねよね。何と国会で。「自衛隊、警察、海上保安庁の諸君にここからみんなで拍手を送ろうではありませんか」というアベ・ジョンイルの行為。「うぉー」と気勢をあげて拍手し煽る与党自民等、公明党の面々。あれれ中国???北朝鮮???アベ・ジョンイル君、一番「驚異だ」って言ってる国の指導者のマネするってどういうこと。結局、かの国の独裁者みたいになりたいってこと???
 七十数年前、「ヘイタイサンノオカゲデス」と大声で唱和を強いられた子供たち。同じですね。やはり繰り返してしまうのでしょうか。あのときも「おかしい」と思っても「みんな」の前で言うことは出来なかったのです。
 そういえば先日、インターネットプロバイダが契約書にない値上げ通知をして来たので、「承知した覚えはない」「契約条項にない」と抗議の電話をしました。散々、法的、事務的に欠陥のある通告であることを羅列すると、反論に困った窓口の女性がのたもうには「みなさん苦情を言わずに納得してます」。はぁ、その「みんな」とは何人だ?全体の何%だ?そしてそれはどういう方法ではじき出したのだ?そんな適当な「みんな」という概念がどうして値上げを正当化できるのだ!!!と追求すると、「そういう数字の根拠はありませんが...」としどろもどろ。数値的根拠のないことを口からでまかせに言って正当化するな、と一喝。消費者センターにも通告して、値上げを阻止しました(笑)。