クライフ氏逝去に思う

 かねてから健康状態が優れないと聞いてはいましたが、68歳の若さでこの世を去ってしまうとは思いませんでした。現役時代のプレーがいくらフライングダッチマンと称されるほどスピーディーであったとはいえ、天国へ駆け上がるスピードはもっとゆっくりでもよかったはずです。
 74年W杯のクライフ氏は衝撃でした。
 初戦で古豪ウルグァイに手も足も出させず、何度も繰り返しオフサイドトラップの餌食にしつつ完勝した試合のプレー、アルゼンチンのゴールエリア付近で難しいトラップを一発で決めGKをかわして挙げたゴール...。東ドイツ戦では途中で雨が降り出したためスパイクを履き代えたのですが、相手の密着DFはクライフ氏が靴を履き替える間(試合は続行中)でさえもタッチライン横で待ち続けていたというシーンもありました。伝説の「クライフターン」が披露されたのはスウェーデン戦、「フライングダッチマン」の称号のきっかけとなったジャンピングボレーは前回(70年)王者のブラジルを2-0で葬り去る試合で飛び出しました。そして、地元・西ドイツと対戦した決勝戦、キックオフから1分、たったの一度も西ドイツの選手にボールを触らせないまま、当時、密着マークをさせたら世界一だったフォクツ選手を振り切ってPKを獲得した圧巻のスーパードリブル....。
それ以来、クライフ氏を「神」として信仰するようになった私の背番号はずっとクライフ氏にあやかって「14番」。今乗っている車のナンバーも「14」。このプログのIDも「johan14」。さまざまなことにクライフ氏にまつわるものを使わせていただきました。
 人生最大の出来事とは何だ、と問われたら、迷わずそのクライフ氏を直接、取材できたことと答えます。
 幸運なことに二度、氏の自宅内でサッカー論のあれこれを拝聴することができました。クライフ氏自身が故郷のオランダでプロのトップチームに招かれた17歳当時、痩せて非力だった彼のコーナーキックがゴールまで届かなかったという逸話、バルサの監督だった当時、逸材と目をつけたグァルディオラを一軍に登用しようとした際、周囲のほとんどが反対したのを押し切ったという逸話などなど、予定の時間をはるかにオーバーして熱く語ってくれたクライフ氏と共有できたあの時間は、私の人生最大の宝物です。
 氏の「美しいサッカー」へのこだわりに関しては、さまざなま所で紹介されているのでここでは敢えて触れません。しかし、氏が単純に華麗なプレーを追求していただけでなく、その裏付けとして常に「クレバーさ」にこだわっていたことも付け加えておきましょう。「同じパス回しの練習でも、区切られたエリアが四角い場合と丸い場合とではポジショニングが違ってくるよね...」などと、身振り手振りを交えて、的確な状況判断の重要さを語ってくれたのでした。
 「技術を重視するあなたの哲学は十分理解できますが、コンパクトな陣形でプレスが激しくなっている昨今、かつてのようにテクニックを駆使するのは難しいのでは」という私の質問に対して「激しいプレスにやられるのはテクニックが低下しているからだ。正しくテクニックを磨けばプレスなんて関係ない」と一喝されたことは強く印象に残っています。「そりゃ、あなたの技術ならわけもないことでしょうけど...」と心の中で苦笑いしたものです。
 「今は理論が先走りすぎて、創造性がないがしろにされている。机の上でフットボールが作られている。その典型的な例がファン・ハールだ」などと、当時、日の出の勢いで注目されていた母国の後輩監督を批判もしていました。「理屈でフットボールを作るから、強い肉体で当たり続け、長い距離を走り回るプレーになってしまう。私なんか、センターから左右に15mくらいづつしか走る必要がなかった」とも。
 クライフ氏の語った理想は今、実現しているのでしょうか?66年イングランド大会から2014年ブラジル大会まで13のW杯を見てきて、マイベストは「74年」としてしまうのは、個人的な思い入れの強さゆえなのでしょうか...?