進学の季節に思うこと...

 卒業、進学のシーズンです。スポーツと勉強との両立を考える時期でもあります。
 スポーツなどやる暇があれば模試や特訓教室に参加すべき。そうでなければ受験戦争に勝ち残れず、勝ち残らねば将来の「良い生活」が保証されない...とせき立てる親たちに押さえ込まれ「受験術」という本来の「学習」とは似て異なる作業に強制的に没頭させられる子供たちが出てくる季節でもあります。
 それなりの企業の「社畜」になり、35年ローンでまあまあの土地にそこそこの家を建て、子供はできれば名の通った私立校で学ばせ、年に一回くらい家族旅行ができるような生活ができることを人生の目標としろ...と子供に強制するならそれもいいでしょう。そういうことこそ人間の究極の「幸せ」なのだ、という人生観なら...。
 過去40年近く少年の指導に携わって、そうした人生観を持つのであろう親の子どもが、多感な時期に早々と「将来の良い生活」を念頭に受験体制にねじ込まれていく姿をいやというほど見せられてきました。そして、彼らの成長した「その後」を何百例も確認する中で「あれが親の思い描いていた未来だったのか」...と複雑な気持ちになる例が後を絶ちません
 港北FCのようにナイター練習のクラブチームでは勉強がままならず、進学の内申書でも不利だからと、学校の「部活」でプレーすることを選択する家庭があります。しかし皮肉なことに、3年後の進学先がクラブチーム出身の子と同じ高校だった、などという例はいくつもあります。そして、その高校から大学受験をしたら、現役で合格したのがクラブ出身の子で部活を選んでいた子は浪人、などという例も数知れず。
 世間で言う「良い学校」から「大きな会社」に入ったものの1年で退社しフリーター生活なんていうのもありました。ノイローゼで引きこもり、というケースもありました。ストレスで暴飲暴食、別人のように肥満体になってしまったというケースもありました。
 このように、一見、想定通りの出世コースに乗ったものの、やがて人としてどこかに心理的歪みがでてしまった、というケースに共通するのは、少年時代の強権的な親の存在です。「世の中を勝ち抜く方程式とはこれだ」と決めつけて、有無を言わさず子供をその軌道にねじ込む親です。
 思春期くらいまでは、何となく「そういうものだろう」と親の言うがままになっていたものの、やがて決められたコースに乗るだけでは打開できないことが世の中には数多くあることに気づく。しかし、親の「飼い犬」と化していたじ自分はその能力があまりに未熟で「成熟した大人の世界」では太刀打ちできないと気づく。言われたことをまじめにこなすことなど当たり前で、勝負はそれ以降の企画力、創造力、臨機応変な対応力と、それらを決断できる自立した実行力であることに愕然とする。
 何であんなになったんだか...と親は嘆くのですが、成人してからでは取り返しがつかないのです。単語や数式を何百覚えても、社会を逞しく動かしていく「人間力」は、少しも醸成されないのです。