戦死から72年、松永さんは天国から何を思う...

 72年前、太平洋戦争の激戦地ガダルカナル島で一人の優秀なサッカー選手が戦死しました。松永行(あきら)さん、1936年ベルリンオリンピックで日本代表が当時の強豪、スウェーデン代表を3-2で破る奇蹟の勝利を挙げた試合で決勝点を奪った方です。
 松永さんは帰国後、日本サッカーが進むべき道について貴重な提言を残しています。日本はショートパスに秀でている。まずはこのショートパスによる速攻を活かし、同時に遅攻も上達させ、緩急どちらでも巧みに使い分けられるようになれば、日本も世界の強豪と対等に闘うことができる、と書き記しています。
 存命であれば、その後、日本代表としてどれだけ活躍されたかと悔やまれる松永さんの戦死から72年、敗戦から70年。日本の社会もサッカーも、驚異的な発展を遂げました。しかし、松永さんが期待した「緩急どちらでも巧みに使い分ける」という試合運びは、未だにできておらず、それどころかW杯では日本代表の試合運びが「つたない」と酷評されてしまいました。
 松永さんが戦死したガダルカナルの攻防は、日本軍の読み・見通しの甘さ、一つの戦法への固執、作戦変更が決断できない柔軟性の欠如、補給・支援に関するツメの甘さ、などが敗因として分析されています。しっかりと実証的に分析し、確率論で的確な戦略を立てていた米軍に対し、前例踏襲と勢い、気力で解決してしまおうとした日本軍の稚拙な戦略思考が打ち砕かれた戦いだったのです。
 対戦相手との差や、日本選手の長所を的確に分析できていた松永さんが、論理的、戦略的に決して納得でなかったであろう無謀きわまりない作戦で強引に戦わされたことを思うと、なんともむなしくなります。どれだけ無念の思いで亡くなられたことか...。
 松永さんの時代は、本場のサッカー情報など日本では知る術がありせんでした。大会参加のために渡欧してはじめて、当時、主流になっていたフォーメーションや戦術を目にしたそうです。渡欧してからのいくつかのテストマッチで懸命に修正を行い、対応したのだそうです。それで金星なのですから、その柔軟な対応力には脱帽するしかありせん。
 今や、日本でも世界の一流サッカーが視聴でき、あらゆる情報が手にできる時代になりました。バルサやレアルの出張教室が開催されています。そんな時代になっても、彼我の差を冷静に分析することなく「自分たちのサッカーをすれば勝てる」と気持ちだけは勇ましい日本代表。相手がどんなサッカーをしてきても「自分たちのサッカーをするだけ」とワンパターン作戦を公言してはばからない日本代表....。
 何だかその精神構造はガダルカナル当時の日本軍と変わっていないのでは...? 天国の松永さんは、そんな日本選手の戦い方をどのように見ているのでしょう。