チカラを持つことで狂う感覚

 岩手のいじめ事件、ようやく「公式に」いじめが自殺の原因の一つと「認定」されたそうです。
 日常的に公然と暴力的な行為をされていることが目撃されていたり、当人の日記には辛さのあまり「死にたい」と書かれていたのに、死後、仰々しく調査してあれこれと審議しなければ、いじめが原因とは認定しないのです。つまり、証拠を積み重ねて教員や校長が「もう絶対に逃げ道はない」というところまで行き着かないと「原因はいじめでした」とは認めないわけです。
 以前にも同様の事件のことを取り上げたときに書きましたが、事件後、第一声で「理由はともあれ、かわいい教え子を救えなくて痛恨の極みです」と悔やむ関係者はまずいない。取材を受ける関係者らは、まず「担任は正しい指導をしていたと信じる」「いじめとは把握していなかった」などと言い、「責任あるのはオレじゃーねーよ」という意志表明に懸命になります。
 君が代斉唱に従うかどうか教師一人ひとりの口元をチェックする...などと自分の意に沿う決め事をするときには、文科大臣だ、市長だ、校長だ、といばりちらして尊大な態度で強要するくせに、何かまずいことが起きたとき、「一切の責任は私にあります」と正々堂々と振る舞う「長」がつく人はまずいません。「それは私の守備範囲ではありません」と逃げる人ばかり。人としての信念や哲学ではなく、利益、権益にすがって生きる人間の典型的な行動バターンです。
 新国立競技場も同じです。国際公約は変えられない、工期が間に合わない、などと言って「変更は絶対にムリ」と強弁していたのに、集団的自衛権で落ちた支持を取り戻すためにコロッと「白紙撤回」しちゃう。責任は誰に?と問うと、皆「オレじゃーねーよ」としらを切り、「そういう問題ではなく、これからはみんなで力を合わせて」などと、子供だましみたいなことを言ってごまかす。「カキみたいで最初から嫌いだった」はWho are you 以来の超バカ発言ですな(笑)。
 ともあれ、担任、校長、教育長、大臣、ディレクター、プロデューサー、コーチ、監督...大小にかからわず、なにがしかの「権力」を持つということは、多少の差こそあれ、人の正常な感覚を狂わせるものなのですね。私も子どもたちの前では、大人、コーチ、という絶対的権力を持つ立場になります。自分の都合の良い解釈ばかりして暴走しないように、気をつけねばいけません。