学力、体力...本当に大切なことは何?

 何でも「脱ゆとり教育」で詰め込み型の教育を復活させたら、学力テストの成績が向上したのだとか。だから「ゆとり教育」なんかダメで、やはりガンガン厳しく覚えさせて詰め込む教育が効果的なんだ、という話が盛り上がっているのだとか...。
 そうでしょうよ。テストの答えに正答を出す、という視点で見るなら、ガンガン詰め込んで覚えさせた方がいいことは確かです。~式計算みたいな方法で徹底的に訓練して、即座に計算問題が解けるようになればいい。「頭がいい」とはそういうことだ、と思っている人たちの考え方らしいですな。
 確かにお受験を控えた子は驚くほど知識はあります。先日、子どもたちを私の車に乗せたときのこと。ある子が「雲ってふわふわしているけど、空の上で座ったりできるのかな~」とカワイイ創造力で話はじめました。すると「お受験」組の子がすかさず「あれは水蒸気の集まりだから無理だよ」と、雨、河川、海、水蒸気、雲という大気循環の話をはじめました。すごいですよ、まったくキモチワルイ(笑)。
 話は変わって東京都の中学生の体力テストの結果が全国でワーストに近いとのこと。東京五輪のお膝元でこれではマズイと、都は体力テストの記録向上のためのプロジェクトに着手したのだとか。いついつまでに、何々の記録を何%上げる、みたいな目標が定められたようです。
 これもまた愚かな話ですわ(笑)。例えば50m走の記録が1秒、幅跳びの記録が10cm、反復横跳びの回数が5回、平均で増えたとして、それで何が起きるというのですか?東京都の中学生がいきなりスポーツ好きになるのですか?幸せになるのですか?そうではないでしょ。「この通り記録を上げました」と担当の「お役人」がエラそうに胸を張るだげでしょ。
 そもそも「体力」とは何のめたにあるのでしょう。腹筋は「上体起こしテスト」のために鍛えるものじゃありません。「反復横跳び」の動作が速くなったとしても、道路で暴走自転車を避けることや、テニスやバレーボールのレシーブのフットワークに結びつかねば、あまり意味がありません。
 でも、日本人って、好きですよね、こういう細かい要素に分解していく方法論。細分化しすぎて最初の目的がわからなくなってしまう。テクニックは上手くて、バスもよくつながって、団結力もあって、でも何でシュートが入らずに試合じゃ勝てないんだろうって首を捻っている日本サッカーも同じこと。個々の要素が高まっても、それを統合して「本当の目的」に向かわせる力が何より大切ということに気がついていない。
 子ども時代は、学力でも体力でも何でも、有無を言わせず徹底的に反復させれば大抵は何でもできるようになるものなのです。百人一首論語をそらんじたり、鼓笛隊で見事に楽器を使いこなしている幼稚園あるでしょ。点数、記録、成績だけに着目するなら、そりゃ徹底した「詰め込み」が効果的に決まってるんです。しかし、それで点数、記録、成績が達成されることが終着点と勘違いしてしまうのが恐ろしいところ。「何のために」ということをすっかり忘れてしまう。
 要素別に「正しい答え」を「早く」出すということばかりに執着する傾向、ありますね日本では。これってつまり、コンピュータ的な人間をつくろうってことですよね。確かに計算の速さや記憶の量・分類など、実作業の部分ではコンビュータは優れています。コマンドに対して即座に的確な反応をする。 しかし、コンピュータの作業の速さ、的確さは便利だけれども、そもそもそのコンビュターの速さ、的確さをつかって「何をさせようか」と考えるのは人間であるとを忘れてはいけません。そしてその「何を」という部分は、記憶量や計算の速さとは関係なく育まれるもなのです。