現実を知るということ

 はだしのゲンの騒動、閲覧再開でひとまず落ち着きました。ただし、内容がどうこうという理由ではなく、自由閲覧禁止にした際の「手続き」に問題があったから、とのこと。ということは「見せるべきではない」という結論が間違いだったとは認めていないわけです。
 戦争の現実が残酷すぎるので子どもに見せるべきではない....。だからでしょうかね、8月15日周辺の戦争特集の番組で、「あんな悲惨なことは絶対にダメ」と言っているのは実体験かそれに準じた経験のある高齢の世代。若い人ほど「やられたらやりかえすの当たり前でしょ」という論調。「軍事の抑止力なしには均衡はあり得ない」と言っていました。
 「非武装なんてナンセンス」「武力には武力で。力を見せつけねば対等な外交はできない」と声高に叫んでいる若者たちは、戦闘とは遠いどこかで誰かがやってくれるもので、自分はいつも安全な蚊帳の外にいる、とでも思っているようです。まさか自分の体に弾丸が撃ち込まれ、爆撃で手足をもがれるとは思っていない。映画かゲームの中で行われることのように、自分は安全な場所で高みの見物をしながら「いけ」とか「やれ」とか言っていればいいと思っている。
 実際の戦闘とは、腸が飛び出し、眼がえぐられ、首がちぎられることなのです。ヨチヨチ歩きの愛らしい子どもも、杖をついた老人も、誰も彼も容赦がなくゴミのようになってしまう。核兵器が使われれば、人は血を流す時間もなく一瞬で蒸発して影しか残らない。ヘルメットに溶けてこびりついた頭蓋骨が残るだけ...そういう現実があるということを想像できないようです。
 サッカーのシュミレーションゲームが人気のようです、画面上でフォーメーションや戦術を決めて対戦する。そんな「画面上の闘い」に明け暮れている人が、本物の選手の試合を見て「もっと走れよ」とか「なんでそこ、行かないんだよ」などと罵倒する。やっているのが生身の人間だということを忘れて、機械のように同じペースで休みなく動けると思っているのです。
 サッカーの試合がメディアで批評される際、元選手、元監督ほど、厳しいコメントが少ないのは、彼らが現実のブレーがいかに辛く厳しいことであるか、端で言うほど簡単ではないか、ということを知っているからです。自分でプレーしたことのないサッカーオタク上がりのようなライターほど、「走れていない」とか、「ミスが多い」とか、「判断が遅い」などと軽々しく言う。現実を知らない、ということは実に困ったことです。
 「ゲン」の描写が子どもに悪影響を与えかねないほど残酷であるということは、実際の戦争が地獄絵図そのものであることを自ら認めているということです。それを子どもの目から遠ざけるということは、高みの見物気分で「やれ、やれ、やっちまえ」と軽々しく叫ぶ若者を増やすことにもつながりかねない。
 軍備増強で均衡を保つということは、笑顔で握手しながら懐にナイフや拳銃を忍ばせているようなものです。「こんちには。いざというときにはヤラせてもらいますけど、とりあえず今は仲良くしましょう」という関係をつくるということですよね。そんな相手と心から仲良くできますか?イヤな関係ですよね。