それもサッカーではありますが...

 高校選手権が終了しました。優勝はPK戦で決まりました。
 優勝校は今大会のほとんどをPK戦で勝ち上がりました。また、得点の多くをセットプレーで挙げています。そのセットプレーのトリックの一つは、直接FKを防ぐ相手の「壁」の前に味方選手が膝立ちの姿勢で立ちはだかり、「壁」をつくる選手の脚の間からキックコースを覗くGKの視野を遮断するというものでした。

 確かにセットプレーはサッカーの重要なプレーの一つです。W杯等でも、セットプレーで挙げられる得点の比率は少なくありません。しっかり練習しておくべき項目です。しかし、サッカー人生の成長期、プレーヤー人生も半ばまで達していないティーンエイジャーの段階で、このようにある限定された方法論に大きく特化した戦法を徹底させる、というのはいかがなものかと感じます。
 今回はセットプレーでしたが、同じ事は別の方法論についても言えます。一時期、DFに絶対にコントロールとビルドアップを許さず、ひたすらダイレクトで前線に向けてキックさせ、それを激しい接触プレーと運動能力の高い選手の突進で拾って押し込む、という方法で好成績を挙げていた学校がありました。そこで育ったDFは、ビルドアップや機を見た攻撃参加などという概念はまったく知らないまま、大切な育成期を終えてしまうことになります。
 何もこのチームのように「考えずに蹴る」ことばかりが問題なのではありません。逆に、パスの好機があってもドリブルの個人突破にこだわり、ひたすらボールを持ち続けるという「歪んだ美学」にこだわるチームもあります。また、思い切って突破をしかけたり、シュートのチャレンジが必要なのに、不必要とも思えるパス交換を繰り返し、それを「美しい連携」と称して悦に入っているチームもあります。これらも、形こそ違えど、同じように方法論に溺れた「偏った指導」だと思います。
 高校生の年代では、サッカーのさまざまなプレーを学ぶ必要があります。勉強と同じです。先日、山中教授のことを採り上げた際、ただ英語を話すだけではなく、「どんなことを話せるのか」が大切だ、と書きました。内容がともなわなければ、方法論ばかり巧みになっても意味がないのです。サッカーも同じです。「~ばかり」やれば、日本の高校選手権くらいは勝てるかもしれませんが、それで終わりです。
 優れた才能を持つ高校生はやがて日本代表になってアジア、世界で戦わねばなりません。そのレベルまで達しなくても、大学、社会人でサッカー続ける生徒もいるでしょう。将来、指導者になってサッカーを教える立場になる人もいるでしょう。また、ファンとしてJリーグのチームや日本代表を応援しつつ、厳しい批評をする立場になる人もいるでしょう。
 そうした、さまざなま「将来」を考えた場合、身も心も柔軟な高校時代に「自分が学んだサッカー」というものが、普遍的なものではなく、何かに特化された特殊なものであった場合、非常に不幸だと思うのです。 
 でもまあ、自分が勝利監督になりたい一心で日々暮らしている指導者は、そんな生徒の将来なんてどうでもいいのでしょうね。たたひたすら、今年の大会で勝つためにはどうしたらいいのか。そういう狭い狭い方法論に深くもぐっていき、生徒をその「駒」にするわけです。その結果、相手の壁の前に膝立ちで選手を並べてGKの視界を遮り...などという発見もするのでしょう。
 ~式という算数の計算を早くできるための塾があります。確かに計算が速くできて、目前のテストの点は良くなるのでしょう。しかし、それで「数学的」な思考が深まることはありません。その場しのぎの方法論にすぎません。山中教授の研究には、少なからず数学的な論理がかかわることでしょう。しかし、山中教授は、計算スピードの速さによって細胞の研究を深めたのであはありません。