民主主義?共産主義?

 「民主主義サミット」なるものが開催されたとか。そして、その参加国とは対照的な政治体制の国が「オレたちの民主主義は、オマエらとは違って独自の形態なのだ」と言ったとか。ふむふむ、そういえば、サミットの参加国が敵視しているかの国の正式名も朝鮮"民主主義"人民共和国だったよな~。

 日本はれっきとした民主主義の国ですよ。"自由"が保障されていますから。何を考えようとみんな自由です。だから、2歳になればベビースイミングに行かせなきゃと思えるし、幼稚園くらいからバイオリンとかピアノとかバレエなんかを習わせなきゃと思えるし、男の子ならサッカーとか野球とか空手なんかも習っておかねばと思えるし、4年生くらいからしっかりお受験勉強して「いい中学」に行かせて、「いい高校」に行かせて、「いい大学」にいかせて、名前が知れた企業に勤めることが安心の老後につながるとみんな疑問なく信じているし...。みんな"それぞれの自由"(笑)な考え。

 学校では、揃いの制服着て、髪型やソックスの色、はたまた下着の色まで指定されて、部活なんか入ろうものなら、有無を言わさず丸刈りにされたり、1年生はシャツに大きく名前書かされてたりして、挨拶の仕方から立ち居振る舞いまで「今までこうしてきた」方法を踏襲させられて、仲間から「はぶかれない」ように空気を読んで異端と見なされないように気を配ります。"みんなが同じに仲良くなる"ことが一番大事な国ですからね。

 政治だってずっとずっと"自由"民主党の天下ですよ。自由を保障する政党ですから、それぞれの主張で派閥がつくれる。いつか晴れて大臣の椅子を指名してもらうために「総理になれそう」な誰にコバンザメするかも自由。石波という男の政治理論が正しいと思って長年、寄り添っていても、総理になれそうにないとわかったらさっさと離脱して「勝ち馬」に乗り換えるのも自由。だって政治信条をコロコロかえるのも自由だから。権力者におもねらないと出世できませんから。

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 アベ、スガ、とかいう政治家が「逆らったら左遷するよ」という体制を作ったら、みなヘイヘイと言うなりになって白いものも黒と平気で強弁しました。忠誠を示すために国会で堂々とウソをついて、その論功行賞で需要ポストをもらう。これって、太った独裁者の横で作り笑いして拍手している軍人たちと同じ構造。

 なんと言っても、この日本で最も強力なキラーワードは「みんなそうしてるから」「そんなことを言っているのはオマエだけだ」「それを認めると全てを認めねばならなくなる」。うん、そうです、とにかく横並びに均一でないと失格なのです、この国は。何につけても「みんな横一列に並ぼうぜ」という圧力がかかる。列からはみだしたら銃殺されることはないけど(笑)、心理的に銃殺される仕組みが行き渡っている。

 これって、心理的にはかなり共産主義的なのではないでしょうか。為政者たちが忌み嫌い、そうなったら大変なことになる、という政治体制。でも、もうずっと前から日本は共産主義的な思想が蔓延していると感じています。

 そういえば最近の親は何かにつけて「子どもがそう言うので」と、子ども自身の選択を尊重しているかのような発言をします。個人の考えを尊重するす民主主義ですね~。でも、よくよく観察すると、そう言うようにゆるやかに「仕向けている」だけに見えます。なぜなら、大抵は「それが本当に子どもの考えなの?」と思えるような結論がでてくることが多いからです。これを家庭環境とも言えるし、洗脳とも言える。

 子どもが「そういう結論を出せば親が喜ぶ」と忖度した結果ならまだ救われます。心の底にまだ「本心」があるのですから。しかし、一番怖いのは、子ども自身が「心底そう思った」と「思い込まされている」場合です。その子はやがて、「自由な思想の結果と信じながら、実は画一化されている横並びの思想」を拡大していく役を担うことになるからです。

 

 

 

 

1億562万2860人の意思

 その昔、日本がまだ韓国に負け続けていた頃、日韓戦の前日会見で明日の結果の予想を記者に聞かれた韓国の監督が、3-1、2-1などと言っていました。「1点は取られるのですか?」と聞かれると「釜本がいるから1点はしょうがない」と答えました。日本に対して絶対的な自信があっても、釜本にはどうやっても点を取られてしまうと言わせるほど、釜本さんの決定力はズバ抜けていたのです。

 世界を見渡せば、ペレ、マラドーナミュラー、クライフ、プラティニバッジオジダン、メッシなど、それぞれの時代に「どうしても止められない」という別格の選手が存在します。そして私たちは、その「どうにも手がつけられない」神業を堪能する一方で、その選手を見事に完封した末の快挙も楽しませてもらいます。

 ずば抜けた一人の存在があることはサッカーの楽しみ方を豊かにしますが、政治ではそうはいきません。独裁政治は最も忌むべき統治法の一つですし、民主主義体制下にあっても、特定の人物、グループ、政党が長く権力を牛耳ることで人々がとても幸せになったというケースは見あたりません。

 さて、やってくる参院選。日本の有権者は10月19日現在で1億562万2860人いるのだそうです。民主主義の基本として、とりあえず過半数以上の「賛成」「同意」があれば支持されているとするなら、為政者は本来、約5280万票以上の票が必要ということになります。

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 ところが、令和2年に行われた参院選投票率は48/8 %。実際に投票した人の数は約5154万4000人で、投票者の全員一致(あり得ないですが)があったとしても、有権者過半数に達しない数でした。

 実際に投票された約5154万4000票の行方を見てみましょう。今のところ、最も支持率の高いのは自民党ということになっていて、その支持率は約40%。ということは、自民党支持者の100%が投票所に行き、その全員が自民党候補者に投票したとしても、実際の投票で集まった自民党支持の票は約2000万票という計算になります。

 本来なら5280万票以上ないと「過半数の支持」とは言えない状況で、現実にはその半数にも満たない最大2000万票ほどの得票を得た政党が第一党となり、権力を行使しているわけです。もちろん、これは全て正当な手付きを経た結果ですので、私たちはその結果を受け入れ、行政に従うことは当然です。

 それでも、1億562万2860人の有権者が存在する中で、たった2000万人の意思が日本を動かしていると思うと、いかがなものか、という気持ちになる人もいるでしょう。ピッチ上のペレやマラドーナと違い、特定の存在に決定的な仕事をされては困るのが政治です。政治ではしっかりチームでポゼッションしながらパスを回すサッカーをしなければなりません。

 ポゼッションサッカーを実践するには、まずそのパスワークの中に参加しなければなりません。投票所に行き、意思表示をしなければなりません。プレーに参加せずに勝利の喜びを得ることができないように、投票せずに平和で暮らしやすい穏やかな日々を求めることはできません。

 どのような政策を掲げる人々に委ねられるにしても、約2000万人で1億562万2860人の意思をコントロールする、つまり有権者の約8分の1の人々によって国が動かされているという状態は、あまり誇れるものではないと思います。まずは投票して意思を示しましょう。

海外組の代表貢献度は?

 サッカー日本代表がW杯予選で窮地に立たされています。オマーンサウジアラビアに二連敗、結果のみならず、内容もあまり明るい希望が持てないものでした。

 オマーン、サウジアラジアとも、チームとしての統制、連携がよく取れていていました。彼らが代表チームとしてまとまって活動できる時間が十分あるからでしょう。かたや日本代表は、選手の多くがいわゆる「海外組」ということで、選手を揃えてチームとしての連携を整える時間が十分には取れていません。この二試合に関しては、そうした「チームとしの成熟度」の差が浮き彫りになったと思います。

 強豪国の多く、特に南米のチームは、日本と同様、主要な選手は別の国のリーグに所属していることが多く、代表チームとして全員揃ってしっかり強化する、という時間がなかなかとれません。しかしその分、国外のリーグから打表チームに帰ってくる選手たちの個の能力は高く、「そこに出しておけばなんとかなる」という感じで、個人の能力で大事な一仕事をしてくれる、という部分があります。

 さて日本代表、全員でまとまった活動がなかなかできないほど「海外組」は増えました。とはいえ、その多くは強豪チームのレギュラーではありません。現在、海外トップリーグの強豪チームでレギュラーなのは富安、吉田くらいで、あとはトップリーグでも中位以下のチームか、2部リーグ、あるいはオランダ、ベルギーなどセカンドクラスのリーグに所属するチームでプレーしています。

 現在でもなお「日本最強のストライカー」の座を揺るがされることのない釜本邦茂さんが、日本人の海外移籍が増えたことに関して、かつて次のように語っていました。「海外にいくなら、行った先で『助っ人』として大活躍するようでないと何もならん。『勉強させてもらいます、経験になります』なんてスタンスなら、行ったって意味がない」

f:id:johan14:20211009152415j:plain 現在の代表メンバーで、釜本さんの言うように海外チームの所属先で「彼がチームにいなければこまる」というほどの活躍をしているのは富安くらいでしょう。新聞の片隅で出場何分だとか、ベンチに入ったとかの記事が載る程度の選手が多いのではないでしょうか。そのレベルなのですから、代表チームを招集して数日、息を合わせればなんとかなる、というわけには行かないのだと思います。

 「海外」といってもイングランド、スペイン、ドイツ、イタリア、フランス以外はJリーグとさほど変わらないレベルのリーグも多く、むしろ2部ならJリーグのトップクラスの方がレベルが高い、というケースもあります。何でもかんでも海外に行けばレベルの高い経験ができるわけではありません。

 「海外で厳しい環境に身を置く」と言いますが、自分にどれだけ厳しくするかは本人の意識次第です。日本にいても、意識次第で自分に厳しい生活はいくらでもできます、実際、海外に渡らずに優れたパフォーマンスを長期間、続けた遠藤保仁中村憲剛らの選手もいます。環境が厳しくなければどうしても怠けてしまう、というスタンス自体が、既にトッププロとしての姿勢失格なのです。

 私も釜本さんと同様、トップリーグのレギュラークラスに食い込めないなら海外に行く意味はない、と考えます。トップレベルのリーグではなく、また、そこで中心選手にもなっていないのに、地理的、時間的ハンディを負って代表チームの活動を乏しいものにする。そういう選手を代表に選出するのはいかがなものか、と思います。

 本来なら、そのような選手よりもJリーグで大活躍している選手を代表メンバーに選出することが好ましいのでしょう、しかし残念ながら、国内組ではそこまでの選手がいない。日本で優れていると評価される選手は皆、海外にいってしまう。しかし、その「海外組」が海外ではさほど活躍できていない、そんな状況で代表チームは短期間の強化しかできない...それが日本のサッカーの悲しい現実なのでしょう。

試合に出て自分らしくプレーしてこそ

 サッカークラブの中学生の部のセレクションを行いました。まだ小6の一学期が終わったばかりなのに、もう中学生になってからの(半年も先の)サッカー環境を決めねばならないとは、何ともおかしな話です。

 しかし、私たちのセレクションなどかなり後発の方で、すでにほとんどのクラブがセレクションを終えてしまっています。いうまでもなく「青田買い」競争に歯止めが効かず、われ先に優秀な子どもを囲い込んでしまおうとするクラブが、先、先、先、と時期を早めていくうちに、もともと冬に行われていてものが秋になり、やがて夏になったわけです。今や春のうちに、つまりまだ6年生になって間もないうちに青田買いならぬ「新芽摘み」をしてしまうクラブもあるようです。

 中学のサッカー環境を選択する時に、大抵の親子は「より強いチームに」という希望を持つようです。それも一つの考えです。ただ、どんなチームに入ったとしても、試合に出られないと意味がありません。強豪チームに拾ってもらったはいいけれど、結局3年間ほとんど試合には出られなかった、というのでは成長著しい3年間を無駄にすることになります。

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 また、強豪チームには能力の高い選手が多いので、望んだポジションでは出場できない可能性もあります。同期に絶対的なエース、中心選手がいるポジションなら、まず出番は望めないでしょう。よくある話ですが、FWがDFに置かれたりなど望まないポジョンを強いられて不満を持ちながらプレーしなければならないということもあるようです。

 強いということは、それだけ結果に固執しているということですから、即戦力の選手を実践的な練習で徹底的に鍛えることで戦力を維持しているはずです。言い換えると、戦力にならないと判断された場合でも、将来を見据えてじっくり育ててもらうなどという期待はまったく持てないわけです。

 こうしたことを十分理解した上で「少しでも強いチームに入る」と考えるならいいでしょう。しかし実際は親子ともども、強豪チームのレギュラーで出場するイメージ(夢)は抱くものの、そうでなかった時のイメージなどまたく考えていないようです。30人、40人同期が合格しても、試合に出られるのは11人だということは忘れてしまうのです。

 試合にろくに出してもらえない、また、出られるように育ててもくれない、手厚い指導を受けるのは結果の出せるレギュラー周りの子だけ...そんなチームに高い月謝を払って3年間通う、というのはどう考えても合理的ではありません。「強いチームに所属していた」という自慢話を語るためなのでしょうか?そうであれば壮大な時間のムダです。

 昔は、子どもが目先のことしか見えず、後先を考えずに不適切な選択をしがちであり、それを社会経験を積み状況を俯瞰できる能力を身につけた親が諌めた、というケースがほとんどでした。ところが、今は親の方が先頭に立って「目先」のことに惑わされています。生半可なネット知識程度のことでサッカーや育成のことを知ったつもりになり、子どもの人生を振り回してしまうのです。

 プロになれるのは4万人に一人。99,99%の子は普通のアマチュアプレーヤーとして一生を終えます。成長著しい中学の3年間に存分に個性を伸ばして試合経験を積めたのか、それともベンチを温めて、あるいはベンチにすらも入れずに終わるのかの差は、その後のサッカー人生の「幸福度」に大きな差を生むと思います。「強いチームに所属していた」という自慢話をしたところで、その後のサッカーのプレーはちっとも面白くはなりません。

 

 

 

 

医療の逼迫と少年スポーツ

 最初に緊急事態宣言が発出されて以来、1年半くらいがたちます。その間、何度も宣言が延長されたり解除されたりが繰り返されています。今回に関しては、宣言発出後に感染数が増えるという現象も起きています。この1年半の経験から、我々庶民が「ああ、やはり緊急事態宣言は効果があるな」と実感できたことは、残念ながらほとんどありませんでした。

 一方で、病床が足りず、救急搬送の受け入れもままならず、ドクターの十分な処置を受けられずに亡くなる方の悲しい事例が報告され、使命感のみに支えられて疲労困憊しきっている医療従事者の方々の姿が報道されます。それらを見れば、自分の軽はずみな行為が他者の生死に影響する可能性がある、という意識は常に強く持たねばならないと自覚します。

 それでも、例えば飲食店の営業を20時までに制限していることが本当に感染を抑え込むために効果的であるのか、入院もままならず苦しむ感染者の方々の感染が、本当に飲食の場から多く発生しているのか?飲食店関係の方々は疑問に思っていることでしょう。

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                 写真と記事の内容は直接関係ありません


 我々スポーツ関係者にも複雑な思いがあります。宣言発出中は、多くのグラウンド利用が禁止されるからです。私たち指導者は、感染拡大抑止の思いを持ち、子どもたちにその指導を徹底する一方で、屋外グラウンドにおける少年スポーツを停止させることに、どれだけの感染防止効果があるのか?という思いも抱きます。

 この1年半、小中学生のスポーツ大会では「無観客」が徹底され、引率した親の応援すらも許されませんでした。健康チェック表、体温記録などを提出したうえで、厳守すべき注意書きだけでA4の紙1~2枚がびっしり埋まるような「約束事」をとりかわし、慎重に運営されてきました。その結果、屋外の少年スポーツの活動がクラスターの原因となったという事例は報告されていません。こうして1年半かけて実証してきた事実があるのですが、「宣言解除まではグラウンド使用停止」という画一的な指示が出てしまいます。

 「人流を抑えることの一環なのだ」といわれれば、しかたがないかもしれません。しかし、子どもをスポーツの活動場所に行かせないとしても、繁華街やショッピングセンターでの休日の子どもづれの人出は「緊急事態」という状況下とは到底思えないほど多く、こうした「密」な場所に親子連れが集まるくらいなら、屋外でスポーツをさせたほうがずっとよい、と思ってしまいます。

 また、先日、久しぶりに行った映画は、ウイークデイの上映で「一席空け」の座り方でしたが、最前列までびっしり埋まっていました。どうやら、人々は実質的に効果のない緊急事態宣言などは右から左に聞き流しつつ、各自で信用できる確実な感染予防対策を講じて、「自衛」の意識で日々を過ごしているという実態がそこにあるように思えます。

 自宅待機を余儀なくされ、訪問医師の酸素吸入を受けつつ入院を待っている方々のレポートなどを見るたびに、感染拡大の恐ろしさを確認します。感染体験者の「死ぬかと思った」という経験談を直接聞き、そんな苦しみは誰にも味合わせてはいけないという思いを強く持ちます。

 しかし、「その「禁止」「停止」「制限」が感染拡大防止、医療崩壊の防止に本当に寄与するのか、と感じる措置があることも事実です。

 少年たちが屋外のグラウンドで1~2時間スポーツすることがどれだけ感染拡大に関係するのか、もう少し冷静に、可能なら科学的に、示してほしいと思います。オリンピックもパラリンピックも強行され、Jリーグもプロ野球も開催されているのですから。

 

困った"my正論"の振りかざし

 先日、人気の讃岐うどん店に入った時のこと。

 私の後ろに若い夫婦と幼稚園年長くらいの女の子か並びます。メニューを見渡した後、父親が言います。「あれ、ここ"小"がないじゃん。"大"はあるのに"小"がないじゃん。なんで? これじゃ○○ちゃん(自分の子どものこと)が食べられるやつないじゃん。なんで? なんで"小"がないわけ? 
 ご存知のように、そのチェーン店は客が列を進みながら、うどんやサイドメニューを受け取っていくシステムになっています。調理をしているスタッフさんは列を動く客のすぐそばにいて、麺の量やトッピングの種類を聞き取り、注文の品を渡します。そんな距離感で、その父親は自分の妻に語りかけている形ではあるのですが、明らかにスタッフに聞こえよがしに言い続けます「なんで"小"がないのよ、ここ...」

 たまりかねた妻が「しょうがないでしょ。いいじゃん、安いんだから」となだめます。「じゃあさ。○と○を頼んで、取り分けて食べるしかないか、これじゃな...」と、まるでメニューに不備があるから自分たちが我慢するしかない、とでもいいだけな様子。お店に対する非難のニュアンス丸出しの口調です。

 最近、こういうタイプの人、増えましたね。自分が自分の基準の中で「正しい」側にいると思い込んでいて、その自分の基準に合わないものは全て「悪」と決めつけ非難する。「だって、本来こうあるべきでしょ」と、無理矢理に一般的な常識めいたものを非難の根拠にしようとする。

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 まぁ、その父親に言わせれば「家族連れが来店する可能性もあるのだから、子どもが"小"を頼むことくらい想定してメニューをつくっておくのが当然でしょ」ということなのでしょうが...。こういう親が、あらゆることにこのスタンスで接していきながら、やがていわゆるモンスター親になっていくのでしょうね。

 学校で子どもの成績が芳しくなければ「教え方が悪い」とか「課題の出し方に問題がある」と言い、子どもの不始末を注意すれば「叱り方が悪い」とか「使う言葉が不適切だ」などと言う。「子どもを扱うプロなのだから、そんなこと完全にできてあたりまえでしょ」などと言う。

 自分が「こうあるべきだ」と思い込んでいる基準に適合しないものは「なっていない」「本来あるべき姿と違う」と憤る。そして、自分は不利益を余儀なくされた被害者なのだと訴える。挙げ句の果てに、自分の基準に合うものを用意しろと要求する。それは(自分の常識からすれば)当たり前のことなのだ」と居丈高になる。

 この手の人は、一生、どこかに自分の理想とする何かがあるはずと信じ、それを求めてずっと「本来こうあるべきですよね....」と文句を言い続ける人生を送るのでしょう。それはそれで哀れな人生なのですが、可哀想なのは子どもです。その子に降りかかるネガティブな現象の全てに関して、「誰かが悪いから、誰かのせいだから」というパターンを親が用意してしまうからです。

 子どもが少しでもストレスを感じることがあれば、家に帰って「パパ..」と訴えれば「それはけしからん」と抗議してくれる。「悪いのはあいつだ」と断じてくれる。これでは困難を乗り越える力、自分を省みる力など育つはずもなく、依存心が強く自立できないひ弱な人間として育つしかなくなります。

 この手の親は、子どもが社会人になって会社の人間関係に悩んだら「一体どういう人事管理をしているんですか」と会社に文句を言いに行くかもしれませんね(笑)。息子が結婚した相手の女性が料理が下手だったら「普通、料理くらいできるのが当たり前でしょ」と相手の家に抗議に行くかもしれませんね(笑)。

 

 

 

 

 

 

ああ、またしても決定力、勝負強さか...

 日本代表のビッグゲームがあると毎回、思うのは同じこと。
 五輪サッカー準決勝、男子はスペイン・アセンシオの一発に沈みました。彼の左足が非凡であることは世界中、周知の事実。交代でピッチインして以来、虎視眈々とその左足でゴールを狙っていることが伺えました。だから日本選手も彼の「左足を切る」守り方を徹底して対応していました。
 それでもあの瞬間、ゴールを背にしてボールを受けたアセンシオは、細かいワンタッチで素早くターンし、ほんの一瞬、ボールを短く押し出しただけで、スリータッチ目にはゴール左端に一直線に突き刺さるあの性格無比のシュートを繰り出しました。まるで「その一瞬だけを狙っていた。オレはそのためにピッチに投入されたのだ」という台詞がボールに書いてあるかのようなシュートでした。
 結局、サッカーは、あるレベルから上の戦いは、あの一瞬を決められるかどうかの勝負なのです。そういう選手を生み出せるかどうか。

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 チーム全体として、ボールをゴールに向けてどう進めるかは、計画的な強化をすればなんとかなる。細かくつなぐのか、スピーディーに前に進むのか、やり方はいろいろあるものの、それは「シュートを打つ場所」への「道筋」にしか過ぎません。最後の最後、どのように得点を奪うのかは、あのアセンシオのようなプレーができる選手をどれだけ生み出せるか、にかかっているのです。
 思い返せば”その一瞬”に長けた選手に「世界」を思い知らされるというのは今にはじまったことではなく、W杯初出場の 98フランス大会から25年続いている話。あの時、アルゼンチンのバティテステュータ、クロアチアシュケルに、それこそワンチャンスを決められて0-1で負け、パスまわしだけでなくアタッキングサードでの決定的な仕事こそ大事、と岡田武史さんがレポートして以来、事態はほとんど変わってはいません。
 この原稿を書いているのは、まさに3位決定戦が行われる数時間前。グループリーグで日本に苦杯を喫したメキシコは相当、気合を入れて来るでしょうね。少なくともグループリーグの時のようにあっさり2点を献上するような「悪い入り方」はしないでしょう。拮抗することが予想される試合、モノをいうのは決定力であることは間違いない。
 野球は甲斐選手、山田選手の見事な勝負強さで勝ち進んでいます。栗林投手の気迫もすばらしい。三人とも「ここぞ」という時に見事な仕事をしている。素晴らしい。あのように勝負強い選手がサッカー界にもほしいものです。