祭りの後

 ラグビー日本代表の活躍は低迷していたラグビー人気を再浮上させることに大きく寄与しました。ラグビー教室に通う子どもたちが増えているそうです。多種多様なスポーツが楽しまれるようになることは、大変すばらしいことです。

 ただ、ラグビー界のこの先を思うと、少し心配な部分もあります

 一つは、今回のW杯は地元開催ということで、特別なチーム強化が実施されたという点。年間200日超という異例な長さの強化合宿期間は、間違いなく「今回限り」の特別なケース。各チームから選手をセレクトして大会前に一定期間だけ息を合わせるという、本来の代表チームの形式に戻った時に、どれくらい今回に近い強化ができるのでしょうか? 

 二つ目は、チームの半数が日本以外の7か国ものルーツを持つ選手で構成されていたという点。今回は「現代社会の多様性の象徴」ということで好意的な評価を受けていたようですが、これから先も常に、トンガ、オーストラリア、ニュージーランド南アフリカといった国々から選手を招聘し続けていくのかどうか? また、そうした「選手輸入」のシステムが、W杯が日本開催でないケースでも安定的に続くのかどうか?

f:id:johan14:20191022155355j:plain

 三つ目は、仮に二つ目の懸念が払拭されたとして、国外ルーツの選手が「日本ラグビー」を支えているという状態になった時、あまり好きな表現ではありませんが「純粋日本人」のラガーが育つ余地が閉ざされていく恐れはないのでしょうか?

 サッカー界ではほとんどの国のリーグで、海外から移籍してくる選手に対する「出場枠」が設けられています。優秀だからといって海外出身の選手ばかりを並べて戦っていると、リーグそのものは面白くなったとしても、国内の選手が育っていく余地が奪われ、ナショナルチームの弱体化に繋がると恐れられているからです。

 さらには、今回はインタビューに通訳が必要な、つまり日本語で十分にコミニケーションできない「日本代表」選手がいました。日本語が話せない日本代表が増えた場合、ファン心理はどうなのでしょうか? 日本代表のジャージを着て勝たせてくれれば、そういうことは一切、不問なのでしょうか?

 四つ目は、やはりフィジカルが強くないと話にならないスポーツということです。スタンドオフやウイングなど、大男でなくても活躍できるポジションはあるものの、体格、筋力がかなり重要な要素となるコンタクトスポーツ。サッカーなどは早々に「フィジカルでは世界では勝負できない」と諦めている中、ラグビー界はその点をとのように解決していくのでしょうか?

 とはいえ、日本のラグビー復興に今回以上のチャンスは二度とないでしょう。それをどう活かすか、日本ラグビーの関わる人々の責任は重大です。

 

 

教師の質低下は、社会全体の倫理観低下の象徴?

 小学校の教師が同僚教師に暴言を吐き、恐喝し、暴行し、傷害を負わていた事件が報道されています。

 普段、子供たちに「イジメはダメ」「暴力は絶対にダメ」と指導している教師が、なんとその絶対的禁止事項を自ら実践していたというのですから、開いた口がふさがりません。しかもその手段たるや、激辛カレーを口にねじ込むとか、被害者の新車の屋根に登って踏みつけるとか、まぁまぁ不良生徒やチンピラヤクザもかくやと思わせるような悪質なものばかり。

 事件を起こした教師はその小学校から異動させられるとのことですが、そんな甘い処置でいいのでしょうか。私は暴行、傷害、強要、名誉毀損などの刑事告訴はもちろんのこと、教員免許は絶対に剥奪すべきだと思います。こうした人物を二度と教育の場に立たせるべきではありません。

 さて、事件に関して会見した校長の姿勢は、今の学校管理職の典型です。一校数年間の自分の任期の間は、とにかく何事もなく穏便に過ぎればそれでよい。多少のことは見て見ぬふりをして次の学校に異動してしまえばあとは知らんふり。定年まで無難に過ごし、教育委員会あるい専門学校の雇われ校長などなど、第二の人生が穏便に確保されればそれで「上がり」というわけです。

f:id:johan14:20191012113733j:plain
 学校のグラウンドをお借りするスポーツ団体の代表という立場で、40年間も小学校、中学校、高校の校長、副校長とつきあってきましたが、上記のような傾向は年々、強まっています。以前は「自分の任期の間に少しでもよき環境の構築を」という情熱を持った管理職もいましたが、今は皆無に近い。判で押したように「前例踏襲」しかしない。

 だから、一旦、どこかで誰かが悪しき前例をつくってしまうと、誰が考えても「変だ」「おかしい」ということが延々と「前例踏襲」ということで受け継がれてしまう。どんなに論理的に矛盾したことでも「前からこうなのだから」と言われれば、「皆さんのよきように」と改善するこを放棄する。だから地域社会との関係でも、「顔役」を自認するような人物が「昔からこうだから」という前近代的な慣習を強要し続けることも容認してしまう。

 同じようなことが職員室でも起きているのでしょうね。十年選手のベテラン教師が、赴任一~二年の管理職よりデカイ顔をするなんてことがあるんじゃないですか?「昔からこうなんですから余計な波風てたないで下さいよ」みたいなイヤミ言いつつ。

 悪くても変でも矛盾してても「前例踏襲」して自身の保身しかできない管理職。小さな閉鎖社会を作り、閉じた論理で反民主的な人間関係を構築する教員たち。このように一般社会の常識、論理、倫理から乖離した組織の中で動く人間が、日々、子どもたちに向かって平然と道徳、常識を説いているのです。

 識者は、教員のなり手が減少する中、採用された教員の資質の低下が進んでいるといいます。そうでしょうか?。人間的に豊かな人物が教員を目指さず、他の職種に流れているのでしょうか? 私は、教員志望者に限らず、社会全体として倫理観、道徳観が低下している現象の一つと思っています。

 誰もが自分第一。物事を損得でしか考えない。人の目が届かず匿名性が確保されれば、平気で人間性に反することをする。自分が強者の立場になると、弱者の立場にある者に肉体的、精神的暴力を振るう。こうした誰もが持ちうる人間の「醜い部分」が、近年、あまりに露出しすぎているのではないでしょうか。

 

 

 

 

国籍?出身地?所属?...学生スポーツだってしょせんは傭兵部隊どうしの戦い

 ラグビー日本代表、驚きました。失礼ながらまさか勝つとは思っていませんでした。巨漢をそろえるFWの平均体重、ほとんどアイルランドと同じだったそうですね。そういう選手を揃えられるようになったのですね、日本も。

 ラグビー界にはラグビー界の慣習があり、代表選手と国籍に関しては他のスポーツとは違う基準があるそうです。そのため、今回のラグビー日本代表の半分は海外ルーツの選手とのこと。アイルランド撃破の快挙には、こうした海外ルーツの選手たちの存在がかなり大きかったようです。

f:id:johan14:20190929115857j:plain
 ラグビー日本代表に海外ルーツの選手が多数を占めることに関して、違和感を表明する人も少なくないようです。確かに名前を聞いても姿格好を見ても、日本人なの..?という選手が多いことは事実。でも、ラグビー日本代表にそうした疑問を投げかけるのであれば、考えねばならないことは多くあります。

 サッカーだってラモス、ロペス、トゥーリオといった海外ルーツ選手の存在によって強化が進みました。反対に、マラソン猫ひろしさんとか、体操の塚原選手とか、日本を出て外国籍を取得し、外国の代表枠からオリンピックを目指した人もいます。

 卓球の中国人選手の中には、国内のレベルが高すぎて中国代表になることはむずかしいため、別の国籍を獲得して代表権を獲得する例があります。カタールなど中東の産油国では、大金を積んで自国の国籍を獲得させ、にわか代表選手をつくって強化するという手法が常態化しています。

 そもそも、現代社会は人の流動も激しく「生粋の~人」などという概念は崩れつつあります。母は~国籍、父は~国籍というような、大坂なおみ選手のようなケースは星の数ほどあって、もう、トップアスリートの間では「国」なんていう概念はとうの昔に形骸化しているわけです。要は、どういう国、組織に所属すればより良い条件で高い場所を目指せるか、という一点だけなのです。

 もう少し身近なところに視点を移しましょう。日本の学生スポーツなど、もう都道府県代表などという概念はとっくに形骸化しています。全国大会に出てくる代表校の選手が、幼少期から地元出身などというケースは希で、強豪校の大抵は日本中からかき集められた「傭兵学生、外人部隊」で構成されているわけです。

 スポーツ観戦で「我らの代表」という気持ちを抱くことは重要な役割を果たします。しかし、何でもかんでも「こっちか、あっちか」と無理矢理に色分けして、単純に「敵か味方か」と二分して、「自分側」と思う方に肩入れして応援するという心理は、こうした現実の前で、この先どこまで続くのでしょう?

 こっちでも、あっちでも、どうでもよく、単純に「このプレーすごいな~」とスポーツそのものを楽しむことが一番いいのでしょうね。

 

一過性ではなく

 まったく盛り上がっていないラグビーW杯...大丈夫なんでしょうか?

 ラグビー界には個人的な知り合いもいて、皆、一様にいい人たちばかり。私たちのサッカーと同じ「フットボール」として、応援したい気持ちは山々なのですが...。

 しかし、100名ほどのサッカー関係者が必死で抽選で引き当てようとしている月4回のグラウンド使用枠のうちの一つ(サッカーならその一日で6枠、12団体が使える)を、「この週はラグビー専用」として平然と丸一日、専用使用する決定を「上から」したり、こちらも数少ない少年野球場を、ラグビーW杯用の専用施設として何ヶ月も閉鎖することを「上で」決めてしてしまったり、などなど、他スポーツから大きな反発を受けるようなことを平然としているところが気になります。

 説明や説得、あるいは共感を求めるお願い、などがなく、全て決定権のある部署にいるラグビー関係者の号令一下、トップダウン、という感じ。これでは割をくった他のスポーツ団体から「何で?」と疑問の声が上がっても仕方がありません。禍根を残すような形で強引に進めていけば、開催後のサポートは冷ややかになるでしょう。

f:id:johan14:20190909105716j:plain

強豪が本気を出すとやはり強い

 メディアはラグビー日本代表が強い、史上最強、と喧伝します。テストマッチでは、いくつかいい試合もしているようです。しかし先日、南アフリカに完敗。 W杯で大金星を挙げた相手に「あの時の再現」と挑んだようですが、文字通り完敗でした。強いチームが本気で構えて準備を周到にすれば、実力通りの結果が出るのです。

 南アフリカはサッカーで言えばブラジルやドイツみたいなものですから、そもそも結果は順当。しかし、事前の盛り上げ方、特にメディアのミスリードが過ぎるので、素人は「え、日本代表ってこんなに弱かったの?」ということになる。

 今はベスト8進出可能...というムードが煽られていますが、もし失敗したら、ダメージは大きいでしょうね。グラウンドを追い出された他スポーツの関係者は「あそこまでされて結果が出なかったのだから、もうグラウンドは渡せないよ」ということになるかもしれません。

 まず、メディアはラグビーに関して客観的で冷静な情報提供をしていただきたい。事実を知って、正しい知識で観戦する方が、本当に素晴らしいところを見つけやすいはずです。

 また、ラグビー関係者は、他スポーツからも応援が得られるような上手な体制づくりをしていただきたい。W杯が終わってもグラウンド不足は変わりなく、他種目と共存共栄していかねばならないのですから。

 バスケは八村、渡辺...と大いに盛り上げ、日本代表は強いというムードを作っておきながら、W杯では馬脚が現れてしまいました。その二の舞にはならないように。

f:id:johan14:20190909110554j:plain

もっとやってくれる、と思っていた素人ファンも多かったのでは?

 

 

生産性が大事というなら...

 先日、あるTV番組で「3度の食事は全て栄養素が計算されたパウターを水に溶かして飲むだけで15秒間で終える」とい若者が出演していました。

 「どうせ最後は便になって排泄するのだから、何を食べても同じ。調理から片付けまで多くの時間をかけることは非生産的」とのこと。彼は「母の愛」すらもムダで非生産的なものと切り捨てていました。与える一方で「見返り」がないから、とのことでした。

 彼は日常生活の森羅万象を「生産的であるか否か」で分類し、非生産的なことは一切やらないとのこと。そのおかげで、一流大学を卒業し、仕事でも同年代の平均年収の二倍を稼いでいるとのこと。

 私は画面に向かって思わず「君は今すぐ死んでしまいなさい!!」と不謹慎なことを叫んでしまいました(笑)。

f:id:johan14:20190902095638p:plain


 だって君ね、君が今、どんなに「生産的」な人間を自負していようと、日本の産業を大転換させるような業績を残せるわけではないし、ビル・ゲイツ並み実績を残せるわけでもなく、ましてやアインシュタイン的な英知を極めるわけでもないでしょ。

 あと40年もたてば、君が「生産的」と自負していた労働人生も終わってしまうのだよ。そして50年、60年たてば君の給料の額も業績も誰も覚えちゃいないし、100年たてば君のささやかな人生そのものが忘れ去られてしまう。

 そして「食べ物が結局は便になる」と君が言うように、「人間も結局、死んでしまう」のだよ。結局、最後は死んで忘れられてしまうのに、生きている今、何かを一生懸命やることなんて、これほど「非生産的」なことはある? 

 そもそも君の人生は長くて90年。地球だって何十億年か後には消滅する。私たちからすれば気の遠くなるような時間だけど、太陽にだって寿命がある。宇宙もビッグバンから百何十億年もかけて膨張しづつけているらしいが、やがて限界に達したら収束してビッグバン以前に戻るという説もある。

 そういうスケールで考えれば、生命も宇宙もいずれ必ず消滅する運命にあるのだから、生命が誕生して一生懸命進化して、人類になって争いをくり返しながら地球を汚染し続けていること自体、神の視点から見ればまったく「生産的ではない」ことなのですよ。

 ...と、画面に突っ込みをいれながら、ふと思い出しました。かつて小学生の教え子に月曜から一週間、くまなく習い事でスケジュールが一杯の子がいました。少しでも空き時間があれば一つの枠もムダにせず、そこでできることをどんどん突っ込んでスケジュールを埋め、あらゆる技能、知識を詰め込んでいる、という感じでした。

f:id:johan14:20190902095747j:plain


 親は合理的で生産性の高い時間管理をしているつもりだったのでしょう。しかし、当の子どもは集中力の欠如、心理ストレスを示す仕草などが目立ち、どう考えても許容量オーバーという感じです。そこで母親にスケジュールの見直しを箴言しました。「どれも削れないらせめてサッカーだけでも休ませてやってくれ」と、サッカー指導者としては奇妙な(笑)お願いまでもしました。

 その会話の中で、母親から「サッカーはやってても何もなりませんしね...」という言葉を聞きました。「何もならない」ということは多分、サッカーは進学にも就職にも直接、役には立たないという意味でしょう。つまり、彼女の言う「生産性」にとってサッカーは意味のないことだったわけです。

 確かにそうです。少年サッカーなんて極めて非生産的な行為です。そもそもスポーツは経済的には消費する一方の行為で、商業的に価値のあるもは何も生産しません。土地があればスポーツグラウンドにするよりマンションを建てた方が経済的には理にかなっています。

 しかし、そんなスポーツの「非生産的」な行為がどうして有史以来、何千年もの間、人間を引きつけてやまないのでしょうね? そこにスポーツをする「意味」が潜んでいるのではないでしょうか? 「15秒メシ」の彼には絶対に理解できないことでしょうけど(笑)。

  

本当に楽しいの?

 それ、本当に楽しいの? ....と疑問に思うことがあります。

 野球の甲子園大会、サッカーの全国大会などの出場校で、50名とか100名とかの部員の中で3年間、一試合も出場機会のない部員たち。野球部、サッカー部に入部したはずなのに、伸び盛りの青春時代を、野球そのもの、サッカーそのものがまともにできないまま3年間を過ごすことに、一体、何の意義を見い出しているのか、と思うのです。

 「たとえ試合には出られなくても、耐えて努力し続けたことが後の社会で役に立つ」などと、もっともらしい通説があるようです。バカバカしくて呆れてしまいます。「耐える」ことに価値を見い出したいのなら、何も大好きな野球、サッカーという場を3年間ムダにしなくても、毎日、冷たい滝にでも打たれ続ければいいのです(笑)。

 全国大会の「スタンド応援要員」になるよりも、たとえ県予選の2回戦、3回戦で負けるかもしれないけれど、9イニング、あるいは90分、自分の考えたように思い切りプレーできる環境の方が、スポーツのプレイヤーとしてはよほど楽しいと思うのですが。

 さて話は変わって、私が指導する少年サッカーでも「本当に楽しいの?」と思うことがあります。
 少年時代は競技力向上よりもスポーツする楽しさを提供することが優先。だから、子どもたちにはとにかく「サッカーが好き」という気持ち、「もっと上手になりたい」という気持ちがあることが全て、と思っています。

 

f:id:johan14:20190828111746j:plain

 

 しかし、そんな気持ちが感じられない子もいるのです。私が「集合」の笛を吹くまでは他の子のように自由にボールを蹴らずにサッカー以外のことをしている。私が課題をデモンストレーションしても、あまり興味なさげにぼんやり見ている。その課題を失敗しても「次は失敗しないように」という前向きな姿勢はなく、平気でくり返し失敗し続ける。チーム内で紅白戦をしても、夢中でプレーを楽しんでいる様子はなく、明らかに集中力を欠いている場面が多い。

 そんな子を見ていると「君は本当にサッカーが好きなの? サッカーすることが楽しいの?」と聞いてみたくなるのです。

 「そういう子を振り向かせてサッカー好きに仕向けていくのがお前たちコーチの仕事だろう」というお叱りを受けるかもしれません。確かに「全ての子どもは間違いなく 100%サッカーを好きになるはず」という根拠のないバラ色の理想に向けて指導者は鋭意、努力すべきでしょうし、実際にこれから先も努力をし続けます。

 しかし「サッカークラブ」の看板を掲げて「サッカー好き集まれ」としている活動の中で、どう見てもサッカーに興味がない子を「無理矢理にでも」振り向かせることに対して、サッカー好きの子どもに対してよりも多大なエネルギーを注入すべきなのか? 私たちはそこまでして強引にサッカー好きを増やさねばならない使命を持つのだろうか?という疑問が残ります。

 サッカーがあま好きには見えない子どもに「本当にサッカー楽しいの?」と胸の内を聞いたことはありません。しかし「別におもしろくないよ...」とキッバリ言われたとしたら、私たちサッカー指導者はどうしたらよいのでしょう。

  

メサイアコンプレックス?

 公営グラウンドで、自分たちの使用時間になったので入場し、設営の準備をしていると、選手たち(成人)がグラウンドの入口付近で誰かに何かを言われています。そのうち一人の選手が困惑した様子で私を呼び戻しました。

 行くと、選手たちの前で一人の男性が興奮しています。その人は「あなたですか、この人たちの指導をしているのは」と私に詰め寄ってきます。選手たちが一体どんな失礼をしたのかと身構えていると「この人たちは、入場するときに正しい入口を使わずに、フェンスを乗り越えた」と言います。

 

f:id:johan14:20190820120208j:plain

 そのグラウンドは人工芝のピッチと観客席が1mほどのフェンスで区切られています。扉のついたピッチへの入口は全部で三カ所しかありません。その時は、入れ替え時間だったために、彼の指導するラグビー選手(中学生か、高校生と思われます)が出入口付近に大勢たむろしていて、すんなり入口を使用できない状態でした。だから当方の選手たちはスムーズにピッチインできるように、正規の出入り口を使わずに、1mほどのフェンスを乗り越えたというわけです。

 「ちゃんと入口があるのにフェンスを乗り越えるとは何事か!!!」「子供たちが見ているのに、どうしてくれる!!!」と彼は息巻きます。対応した私が「どうしてくれると言われてもね...」と困惑していると「謝れ、謝るべきでしょう」とさらに興奮します。

 「いやいや、まず落ち着いて下さい」となだめると、「あんたは誰だ、名前を名乗りなさい」と身を乗り出してきます。「私は間違ったことを言っていないから、正々堂々と名乗れますよ。あんたはどこの誰なんだ」と鬼刑事も顔負けの迫力で迫ってきます。

 浮気が発覚したタレントを追究する芸能レポーターと同じで、落ち度がある相手に「こちら側は正義である」ということが明確な時、人は遠慮会釈なく攻撃的になります。正義を振りかざして相手を追い込むことの興奮に酔いしれるのです。

 ああ芸能レポーターと同じケースだな、と感じた私は、「謝れ」と連呼する彼をなだめながら、「わかりました、彼らには次からは乗り越えないように、よーく言い聞かせておきますね」と笑顔で対応して何とか帰しました(笑)。

 このように倫理、道徳、社会正義を振りかざして他者を追究する心理の一つに、メサイア・コンプレックスというのがあるそうです。自分はメサイア、つまり救世主であるから、汚れた世間、堕落した世間にもの申して自分が正しく導いてやるのだ、という心理なのだそうです。

f:id:johan14:20190820120312j:plain


 こうした心理に陥る人の裏には、欲求不満にまみれた自分、うだつのあがらない自分という影の部分があるのだそうです。現実世界で抑圧され、矮小な自分という心理を持つからこそ、誰もが「悪」とわかる事象を見つけては激しく糾弾して溜飲を下げるのだそうです。倫理、道徳の面で「よろしくない」という事象に関しては自分が100%「正義」の側に立てますし、周囲からの賛同も得られやすく、容易に他者に対して居丈高になれるのです。

「こどもたちの前で間違ったことをしたのだから謝れ」と興奮していた彼の様子を見ていた我がチームの大学生の選手が、ポツリといいました。「ああいう人って、カバンを綺麗に並べているチームは強いんだ、みたいなこというタイプなんだよな、生徒がかわいそう」

 さて、ルールとマナー、常識をタテに「フェンスを乗り越えたから謝れ」と興奮していた彼の生徒と父兄ですが...駐車場から競技場に通じる通路を完全に塞ぐ形でたむろしていました。通れないので「すみません」と声をかけたものの、ガヤガヤとお喋りに夢中で一向に気付いてくれません。「あの~」と声のトーンをあげてようやく通路を空けてくれました。「ここは通路だから大勢で塞いではマズイ」と気付いてくれたかと思いきや、私が通り過ぎると同じように道を塞いでガヤガヤ。人に文句を言う前に、まず、自分の身内のマナーを正しましょうね(笑)。

 それに、彼自身、規定の時間になってもグラウンドを立ち去らず、私たちの使用時間になっても一定時間、ガミガミと持論を展開し続けて活動を妨害したことも、使用時間に関するルール違反、ないしはマナー違反ですよね。私が彼と同じ口調、表情で「試合の準備を滞らせたことを謝れ、規定時間を超えてグラウンドに滞在した分だけ利用料を支払え」と言ったら、彼はどう反論するのでしょうね。

(写真はいずれもイメージです)