人生の選択の自由度64位、寛容度92位

 少し前に、国連の関連団体が世界150の国、地域を対象にした「世界幸福度報告」を発表しました。日本は58位とのことです。

 さまざなま要素をもとに分析した結果ですが、日本は「健康寿命」2位、「一人あたりのGDP」24位などで健闘したものの、「人生の選択の自由度」64位、「寛容さ」92位が大きく影響し、この順位に留まりました。

 日本では、長生きできて経済活動も豊かではあるけれど、思ったように生きることができず、互いに非難し合うことが多く人を許す気持ちに乏しい社会、と感じている人が多いようです。

 確かに日常生活を見渡してみると、子どもたちの周囲には「選択の余地なし」という事象が多いという気がします。

 学校では校門から教室に入るまでの歩き方、鉛筆の数、消しゴムの形状まで指定される。休みに近所の公園に行けば、あれをしてはダメ、これをしてはダメと遊び方が制限される。サッカークラブや野球チームで試合に出向けば、校門前での車の停車(駐車ではありませんよ・笑)の仕方はこうで、校庭で履ける靴はこれで、立ち入れ禁止はここで、遊具は使用禁止で、時には父兄の応援の声のトーンまで制限される。何かに登ったりしようものならダメダメダメと叱られる。

f:id:johan14:20190508120236j:plain


 せめて放課後くらい友だち同士で楽しく遊ぼうと思っても、月曜日は塾、火曜日はスイミング、水曜日はピアノ、木曜日はそろぱん、金曜日は...と習い事のスケジュールがびっしり詰まっている。その習い事も、マイペースなんてとんでもない世界で、得点による順位だとか偏差値だとか、上級コースだとかなんとか、始終、上、上、上を目指さねばならないようなシステムができあがっていて、いやおうなしに追い立てられている。

 中学や高校に行けば、スカートの長さが膝上何センチだとか、天然の癖毛でパーマではないことを証明する書類を出すとか、ポニーテールは男子生徒を挑発するからダメとか、挨拶の時に身体を30度傾けろとか、おもわず吹き出したくなるような校則を大まじめで守らねばならなくなる。部活でスポーツをすると、まるで古代の帝王のように振る舞う顧問の言うとおりに理不尽な行動を取らねばならなくなる。試合に絶対に出られないと判っていても「3年間、同じ部に所属することがいいこと」などという世界のどこに行っても通じない特殊な価値観に縛られる。

 やがて就職活動を迎えると、気味が悪くなるくらい同じ服装、髪型で、マニュアル通りの口調、マニュアル通りの話し方をして、できるだけ規模の大きな企業に入ることが成功と信じている。そして、入社すれば社畜としてあらゆる理不尽に耐え、人間性を疑いたくなる上司にごまをすり、35年ローンで買った自宅のために我慢に我慢を重ねて歳を取る。

 うーむ、確かに「自分の生き方で自分の人生を生きた」とは言えないかもしれないな~。経済的に一定の水準を得ても、胸を張って「幸福な人生です」とは言えないでしょうね(笑)。

 だから学校の先生に不満をぶつけ、習い事の講師、コーチに苦情を言い、店や企業にクレームをつけ、SNSで誰かを悪人にして徹底的に叩いていないと、やり切れないのかもしれませんね。確かに、何でもガミガミ文句言う人を見ていると、どこか欲求不満を抱えているように見えることが多いです。選択の自由度が低いことと、寛容度が低いことは、どこかで繋がっているかもしれませんね。

 

「あかつき」のプロジェクトから思う計算の力

 私のサッカーの教え子たちの中に、算数の計算が速くできる訓練をする学習産業の顧客になっている子どもが過去、現在ともにいます。

 私はかねがね、数式の計算のスピードが早くなることがそんなに大切なことなのか、子ども時代に必要な他の時間を削って、安くない対価を支払ってでもすべきことなのか、と疑問を抱き続けています。まぁテストの時に答えが早くわかるという利点はあるでしょう。しかし、数学的思考、数学的能力の本質は、計算のスピードではないと思うのです。

f:id:johan14:20190420102526p:plain
 先日、TV番組で金星を探査する宇宙調査装置「あかつき」のエビソードを紹介していました。「あかつき」は当初、金星付近に到達した後に、スピードを制御する噴射を行い、太陽の引力を振り切って金星の軌道に乗るはずでした。しかし、燃料の経路に付着物が堆積するという想定外のアクシデントが発生して噴射装置が破壊され、姿勢制御を失敗して太陽の引力に支配されることになってしまいます。

 金星観測は大失敗という絶望感が漂う中、ある女性研究者が光明を見いだします。「あかつき」が太陽を周回する軌道と、金星が太陽を公転する軌道を計算し、5年後のある時、ある地点で、「あかつき」と金星が接近するポイントを探り当てたのです。

 その奇跡的ピンポイントで、残された姿勢制御装置を噴射することで「あかつき」は金星の軌道に乗ることができる。噴射に必要な時間は二十数分と算出されました。その姿勢制御装置は元来、わずか数秒ずつの噴射を想定してつくられています。二十数分もの連続稼働に耐えられるのかが心配されました。しかし「あかつき」は見事、5年遅れで金星の軌道に乗ったのです。

 「あかつき」は現在でも金星の軌道を周回し、これまで謎であった金星のデータを刻々と地球の研究所に送り続けています。5台積んだカメラのうちすでに2台は作動しなくなっているとのことですが、残った3台のカメラは現在進行形で金星研究の扉を開き続けているのです。

 想定外の暴走をしてしまった「あかつき」と金星の動きを見極め、接近ポイントを探るという、大宇宙を相手にした女性研究者の計算の経緯がいかに過酷だっかは、机の上に山と積まれた用紙の束が雄弁に物語っていました。「あかつき」プロジェクトを支えた彼女の「計算力」の偉業を知ると、計算とは、何をどのようにするかを考え、それをどう実践に活かせるか、という力を伴って発揮されることが大切であることがわかります。

 科学に、社会に、人類に貢献するような彼女の計算力を考えると、テストで早く答えを出すために必死に数式計算の反復訓練をするなどということが、いかに些末でむなしい訓練であるかがわかります。

 物事を為すにあたって「どのように」という方法論も大切ですが、もっと大切なのは「何のために」「なぜ」ということです。「どのように」は確かに目前の利益に直結しやすいノウハウです。しかし「何のために」「なぜ」を考えられないまま、ノウハウだけはあざとく身につけて大人になっていくことは悲しいことです。

 いくら計算が早くできても、それをいつ、どこで、どのように使い、それが何のためになるのか、を理解できなければ、世の中の役には立たず、ただ「計算が早い子」で終わるのです。

 

 

 

 

本末転倒

 受け持ちのサッカークラブ小学生の市大会が始まります。 初戦は新学年になってわずか2週間でやってきます。新しく学年担当になって、まだ子どもたち一人一人の顔と名前が完全に覚えられていない中での采配になります。

 なんでこんな新学期早々に大会をやらねばならないの?....と思うわけです。多分、この時期にやっておかないと、次に開催される他の大会までにスケジュールがこなせないから、という理由でしょう。この大会と次の大会の間には、土日に登校する学校行事も頻繁にあり、それを配慮しているとコンスタントに土日に試合ができない、だから子どもが土日に安定して集まれる時期にどんどんスケジュールをこなしていこう、ということだと思います。

 これ、昨今の日本中によくある「消化すること」自体が目的になってしまっている、本末転倒の典型ですよね。多分、大会の趣旨には少年の心身の健全な育成を...みたいなお題目が謳われていると思うのですが、こんな新学期早々に大会を催すことがその趣旨の達成に適しているとは到底思えません。

f:id:johan14:20190412113837j:plain
 同じように本末転倒なのが、学校の運動会の5月開催。新しい学年、クラスなって、たった一ヶ月で運動会ってどういこと? そもそも体育の授業自体、新クラスではろくにこなしていないでしょうに。本来、学習や努力の成果を確認し、それを次の意欲につなげることがイベントの教育的意義。クラスが組まれて間もない春先にそれを開催すれば、努力や協力ではなく生来の能力の品評会という色彩が強くなりがちです。

 これも、まず「やらねばならない」という消化が目的になっている典型。本来、最も開催に適している秋に実施しようにも、他のイベント事が満載でスケジュールがキツキツになる、だから一学期に回せばいいではないか、という考え。そこ何を求めるのか、何が狙いなのかという本質はすっとばしてしまい、とりあえずどこかのタイミングでスケジュールだけはこなしました、という事実は残るのです。

 話は変わりますが、高校野球でピッチャーの投球数制限を義務化している新潟県の試みを、高野連は全国規模に広げることをためらっています。投球数によって試合中にピッチャー交代を余儀なくされた場合、二番手、三番手を用意できない学校が出てきて、複数のピッチャーを抱える学校が有利になるから、とのこと。また、有力ピッチャーに対して、ファウルを多用して投球数を稼ぎ、試合途中で降板させる作戦が使われる、などの懸念もあるとのこと。

 声高に「教育の一環」を謳っている高校野球なのだから、いろいろいな選手にピッチャーを経験させるのは本来の目的にかなっているはず。また、ファウル多用も、監督の多くが趣旨を理解している「教員」なのだから、ゆめゆめそのような指導はしないはず。しかし実態は教育、健全な心身...といったお題目など等の昔に形骸化していて、プロ顔負けの体制を整えた有力校の競い合いになっている。勝利至上主義が蔓延しているからこそ、勝ち負けのことを最初に考えてしまい、少年の肩、肘に配慮するという本来の趣旨に沿った決定を躊躇する。

 少年のサッカー大会、学校の運動会、高校野球...何でそれをするのか...という本来の目的を忘れていること、多いですよね。物事にはちゃんと「意味」があるはずです。私たちは、思考停止になって流されていかずに、常に真理と本質を見ていなければなりません。

 

 

 

 

子どもに個人コーチする前に...

 ブログの管理者から「そろそろ記事を更新してはいかがですか?」というお誘いをいただくほどご無沙汰してしまいました。すみません。ちょうど書きたいネタに遭遇したところでした。
 小学生の練習試合。グラウンド横の駐車場の前で子どもたちを待っていると、障害者用の駐車スペースに止まる車。降りてきたのは傷害を持っている方ではなく、サッカーの格好をした子どもと、その父親と思しき大人。あれあれ、他に空いているスペースはいっぱいあるのに、入り口のまん前だからって、あなたたちがそこに止めちゃダメでしょ、モラルの面からはもちろん、我が子の教育という意味でも...。

f:id:johan14:20190324100152j:plain
 しかしじっと見ている私の視線に躊躇や後ろめたさといった様子は微塵も見せない父子。車のドアを閉めると、父親はトランクから縄跳び縄を取り出し、受けとった息子は黙々と縄跳びを始めます。

縄跳びが終わると、今度はジャンプ運動。
 やれやれ何やってるんだこの親子、と思って思っていると、体温が上がってきた子どもが上着を一枚脱ぎます。現れたユニフォームの胸に着いているエンブレムを見ると、ムムム~今日の対戦相手!!!(笑)。あ〜あやりたくないな~こんな親子のいるチーム、と思いながらも、しかたなく試合はガッツリやりました(笑)
 帰り際に、傷害車スペースに止めたままのその父子の車の中を覗くと、まぁあよくもこんなになるまで、と思えるほど汚らしく散らかった座席。
 あのね、おとーさん。もう白髪が出てきているほどの年齢なのだから、10歳の子どもに意味のない個人コーチする前に、まず車の座席を片づけましょうよ。そして、弱者の方々のために用意している駐車場スペースに、サッカーのトレーニングができるほど元気な子どもを乗せた車を止めるのは今後、絶対にやめましょうよ。

 父親がそういうこと平気で日常にしていると、あなたの子ども同じように不潔で無神経なダメ大人になっちゃいますよ。

 

それってあの国と同じ?

 知人の子どもが今春、入学するという小学校の話を聞いてびっくりしました。

 まず登校したら、校庭を横切るように歩いてはならず、決められたルートを通って教室に入るのだとか。筆箱に入れる鉛筆の濃さはこれこれで、本数は何本、赤鉛筆の数は何本。ただし赤ペンはNGで、ある学年になってから所持が許されるとのこと。その他、まぁ、ああしろ、こうしろ、この通りに、と決められたことでがんじがらめの様子。

 その話を聞いて私は思わず「それってまるで・・・じゃん」と叫んでしまいました。・・・に入るのは、将軍様の下、全てが国家に統制されているアノ国です。もちろん知人の子が入学する小学校ではかの国のように「将軍様マンセー」と崇拝を強要されてはいませんが、子供たちが皆、横並びにカッチリと統一された行動をとるように仕向けられている点では、ほとんどあの国と同じです。

f:id:johan14:20190220122122j:plain

 まあ考えてみれば、日本の政治も一応『民主主義国家』を謳ってはいますが、実際はアベちゃんの一声で与党も官僚も「マンセー」と叫び、形だけの国会審議をして、ほどよい頃に「ではそろそろ」と何でも強行採決でゴリ押しして決めてきているわけです。つまりアベ将軍様が口に出せば最後は何でもまかり通る。

 アベちゃんの奥さんの影がちらつけば、普通は通らない学校の建設許可が下り、アベちゃんのお友達がやっている学校なら、普通は降りない認可が下りる。アベノミクスの効果を喧伝するためには、官僚は事実を曲げてウソの統計発表をする。日本の為政者たちがやっていることは、脅威だ脅威だといっている国の権力者とその後ろで作り笑顔で拍手している取り巻きたちの姿とほとんど変わらないわけです。

 サッカーの練習や試合でいろいろな学校の校庭やグラウンドを使わせて貰いますが「あれは禁止、これはダメ」とまぁ規制の多いこと。とにかく何でも禁止にして、枠の中でおとなしく羊の群れのように決められた方向に整然と動いていると安心する人たちが増えました。子どもたちもそんな環境に慣れきってしまい、どんなことにも「いいの?」と許可を確認するクセがついています。つまり自己判断を放棄して思考停止する傾向が強まっている。

 「決まり事だから」と、何ら疑問も持たず、矛盾にも気付かず、もちろんその理不尽さを指摘することなど到底なく、無条件で盲目的に従属する子どもたちを量産していきてたいのでしょうか? そんな子どもたちが成長すれば「キョーコーサイケツ?しょーがないじゃん、多い方が勝ちって決まってるんだから」と単純思考の大人になるんでしょうね。

 ああ恐ろしい。少なくともスポーツでは、そんな人間を育てないように最大の努力をしなければなりません。それは、まず、自分がどういうプレーをするのか、を自分で決めていくことから始まります。

 

 

フジア杯と日本人の課題

 随分、ご無沙汰してしまいました。アジアカップの評論をしてほしいという話をあちこちでされるので、遅まきながら。

 まず、森保監督になってから、ハリルホジッチが残したプラスの遺産、すなわちタテに勝負する意識が定着して、以前のように「どうしてここでどうでもいいパスつなぐんだ~!!!」というイライラは減りました。ただ、期待の堂安にしても、原口にしても、イラン戦、カタール戦のように「ここ一番の勝負」では、強力な攻撃の突破口になれるほどではなかったですね。屈強なサイドバックに封印される時間が長かった。まだまだ対策を立てられると威力が半減してしまう。

f:id:johan14:20190215162311j:plain


 チームとしては、状況に応じて戦い方を変えられる応用力がついてきていると感じます。少なくとも「自分たちのサッカーをするだけです」という・・の一つ覚えではなくなった。ただ、先ほど挙げた個々の選手のプレーと同様、「ここ一番」という試合で勝ち切れない脆さは相変わらず。

 

「厳しいイラン戦を勝ち取ったではないか」という指摘もあるでしょう。確かにその点は評価できます。しかし、一つの大きな勝利をした後に本当に大切な勝負は落としてしまうという流れはドーハの悲劇以来、あまりかわっていません。

 ドーハの時は、崖っぷちに追い詰められてから韓国に劇的勝利をして望みをつないだものの、最後にイラクにしてやられた。ロシアW杯でも、コロンビアに勝ち、セルネガルに引き分けて「すご~い!!」となった後、消化試合のポーランド相手に負けた。今回もイランに勝って「意外に勝負強くなった」と思わせた後、大切な決勝戦で完敗しました。

 厳しい勝負を「勝ち切る」のは、本当に難しい。しかし、今、日本サッカーの課題はその一点に集約されています。それは、日本代表になってからの強化で推進されるものではなく、日本中のあらゆるサッカーシーンに委ねられている課題と思っています。

 というか、サッカーに限らず、日本人の日常行動の全てで、自己判断し、決断し、後始末まで自分で責任を持つという意識を育てていかねば、それは改善されないでしょう。「皆がそうだから」「人に言われるのがいやだから」という概念が先に立っているうちは、大事な勝負事に果敢に挑んで結果をもぎ取るという意識は醸成されていかないでしょう。

 例えばどのサッカークラブに入るかという選択でも、進学先の選択でも、はたまた政治的な判断でも、可能な限りの情報を入手し、客観的な視点を働かせて「目先のことではなく長期的な展望を見据えてよく考える」ことをせず、「根拠のない風評」に踊らされ、「何となくみんなの傾向」のようなものに流され、巧みな商業的動員に踊らされて決めてしまう。そんな「思考停止」の日常を送っている限り、個々の確かな思考力、判断力、決断力は育たないでしょう。

 上手くて賢くてチームワークがいいように見えて、いつも大事な勝負をことごとく落とす...そんな日本代表の姿は、まさに私たち日本人の「今」の姿を映し出しているのです。

 

 

ビデオ判定って法解釈の厳密さを誇示するツール?

 サッカー・アジア杯の日本vsベトナムでビデオ判定が試合を決めました。
 日本の決勝点は堂安選手が倒されたことによるPK。流れの中ではプレーオンでしたが、後にビデオで確認され「やっばりPKでした」という判定。日本の先制ゴールと思われた吉田選手のヘディングも、かすかに腕に当たっていたことが後からビデオで確認されノーゴールと判定されていました。
 私に言わせると、吉田選手のハンドも、べトナム選手のトリッビングも「?」です。吉田選手にヘディングされたボールは確かに腕をかすめて飛んでいるように見えますが、とても「手でコントールされた」というようには見えず、また「手に当たることによって決定的なアドバンテージを得た」とも思えません。
 堂安選手が倒されたプレーも、ベトナム選手がかすかに堂安選手の足先を踏んでいるかのように見えますが、堂安選手は踏まれたタイミングとズレて姿勢を崩していて、足を踏まれたことが大きくバランスを崩す原因になったとはどうしても思えません。むしろ、自分のつま先に相手選手の足が触れたことをいいことに、堂安選手が大げさに倒れている「シミュレーション」のようにも見えます。
 吉田選手のヘディングの時は、ベトナムの選手たちは、てっきり得点されたと思い込み、皆がっくりうなだれています。誰も「ハンドだ!!」とアピールしていません。堂安選手が倒された時は、さすがに本人と周囲の日本選手の何人かは「PKだ!!」とアピールしていますが、それはぺナ内で倒れた時のお決まりのようなことで「とりあえず言っておく」という程度のアピール。誰も「絶対にPKだ」と確信はしていなかったでしょう。ベトナムの選手は「お前、汚いぞ、シュミレーションじゃないか」とばかりに堂安選手に詰め寄ってもいます。
 いずれのシーンも、そのままビデオ確認されずに流れていても、両チームとも納得(もちろん100%ではありませんが、サッカーではよくあることとして)していたのではないか、と思われるわけです。それを、ビデオで重箱の隅をつつくような確認をして「厳密には反則でした」とする。なんだが、わざわざ罪を掘り起こしているようで複雑な気持ちになります。
 例えば「一時停止」の場所で、ほぼ止まっているような速度で、しっかり左右の安全確認し、誰も歩行者がいない状態で車を通過させたのに「はい、ピタリと止まってはいませんでしたね」と交通違反になる。交通法規に厳密に照らせば違反なのでしょうけど、実際には誰にも危険を及ぼしておらず、安全の意識も確保されている。警察官だけが「違反を摘発した」と納得している。安全確保ではなく、取り締まり自体が目的になっている。それに似ています。
 今回のビデオ判定も「厳正にルールを適応する」こと自体が目的になってしまい、サッカーの持つファジーな部分(それも幾多の名勝負と思い出と怨念と闘志の源泉になる)を排除しているように思えます。「確認してよかった」と納得しているのは審判だけじゃないんですかね。
 ベトナムは吉田選手のヘッドの取り消しをしてもらっているからPKには強く抗議はしてこなかったですけど、もしそれがなければ、あのPKには猛烈と抗議してきたでしょうし、私が言うように堂安選手のシュミレーション疑惑も持ち上がったことだと思います。
 「ホラ、ここでちよこっと触っているでしょ。これ、反則なんですよ」という審判だけがご満悦になる法解釈の講義みたいな判定、私は大嫌いです。